
「My Soundtracks」第三回目にして初の日本人ゲストは、絶賛進行中の「7e.p. presents 7solo」シリーズのこれまた最初のタイトルとなった『シブヤくん』をリリースしたばかりの澁谷浩次。リーダーを務めるyumboもロングセラー中の『これが現実だ』に続く4thアルバムも2015年のリリースを目指して鋭意制作中。写真は2007年、マヘル・シャラル・ハシュ・バズの一員として大作『セ・ラ・デルニエール・シャンソン』録音の際フランスにて。

5歳 Lalo Schifrin “Enter the Dragon – Main Theme”
物心ついた時には、両親は水商売で生計を立てていた。住まいは叔母が経営するスナックの2階で、両親はそのスナックで毎夜働いているのだった。電車も通らない田舎町だったので、面白い事といえば二軒隣のスナックの娘のミミちゃんを家の窓から眺めたり、角の靴屋の息子から肝油を貰って食べたりするぐらいだったが、両親がオモチャ代わりに与えてくれた、店のジュークボックスからあぶれたシングルを兄と聴くのは格別に楽しかった。この頃に聴いたものではビートルズとかフォークルも印象に残っているが、この「燃えよドラゴンのテーマ」には、どうにも抗し難い劇的な魅力があった。多彩な楽器、壮大な編曲、血湧き肉踊るリズム、そして奇声。こんなスゴイものがどのように産み出されているのか知る由もなく、ひたすら音楽に合わせて奇声を発し、パジャマ姿で踊り狂うしかなかった。

10歳 Yellow Magic Orchestra “Multiplies”
日本で生れ育った僕の世代のミュージシャンで、YMOに影響を受けなかった人は極めて少ないのではないだろうか。前年の「テクノポリス」の大ヒットによって、それまでピンクレディーやジュリーばかり聴いていたのが、すっかりテクノ一色になってしまった。僕は四六時中シンセの事を考えるようになり、学校の勉強も手につかなくなった。ノートには「どうすればYMOのメンバーになれるか?」という偉大なる夢が綴られ、哀れな母はそれまで子供たちに600円のシングル(それでも彼女にとっては高価だったに違いない)を買い与えていれば良かったものを、YMO(とそのファミリー)のせいで、2800円もする「アルバム」までもねだられる羽目になってしまった。母には今でも申し訳なかったと思うし、たいへん感謝している。

15歳 XTC “Season Cycle”
16歳になる寸前に、我が最大のヒーローであるXTCの名作『Skylarking』がリリースされたが、これは44歳になろうとしている今も頻繁に聴いている作品。XTCに出会ったのは12歳の頃だったので、『Skylarking』を買った頃には既にファンとしてベテランの域に達した気分になっていて、「ほほう、今回はコリンも頑張ってるな~」とか「デイヴもなかなかいい仕事してるじゃないか」なんて思いながら、XTCが作り出した新たなる桃源郷に浸り切っていた。自宅でのシンセいじりは始めていたものの、YMOのメンバーになりたかった少年時代は既に遠い幻のようになっていて、徐々に、自分の音楽を作るにはどうしたらいいか模索し始めていたと思う。

20歳 原マスミ “海で暮らす”
15歳から20歳にかけてはアホみたいに世界中のあらゆる音楽を聴いた。情報源は主にFMのエアチェックか、文通友達とのカセットテープの交換だった。そのため、本稿を執筆するにあたって、この時期に聴いていた1曲を選ぶのは最大の難関であり、本音を言えば500曲ぐらいは挙げたいところだけれども、敢えて1曲だけ、と言うなら原マスミだろう。同じぐらいの頻度で聴きまくっていたムーンライダーズやあがた森魚やヴェルヴェッツ、スラップ・ハッピーなどは、どれも「誰かが教えてくれて気に入った」音楽だったが、原マスミは違った。誰に導かれるでもなく、僕が自分自身で原マスミを発見したのだ。そのため、今でも僕は道を歩いたりしていて、ふとこの曲を思い出しては、ものすごく悲しいような、嬉しいような、訳の分からない気分になることがある。つまり、原マスミの音楽は「自分」の心の移り変わりや、生きてきた時間にあまりにもシンクロしてしまっていて、感情的に切り離すことができないのだ。

25歳 ICP Tentet “Alexander’s Marschbefehl”
それまで大事にしていたレコードや本をすべて売り払って、住み慣れた北海道から仙台へ引っ越したのは23歳の時だった。雇ってもらった中古レコード屋の社長がヨーロッパのフリーミュージックを教えてくれたのがきっかけで、この時期だけはあんなに大好きだったXTCもロバート・ワイアットもレインコーツも視界の隅に追いやられ(後で戻ってきたけど)、家ではひたすらスティーヴ・レイシー、デレク・ベイリー、そしてミシャ・メンゲルベルクを聴き、そのブームはやがてドルフィー、アイラー、コルトレーン、オーネットへの興味も加わり、さらに熱を帯びた。自宅ではこうしたレコードを聴く以上に、大音量で即興演奏を多重録音したりしていた。部屋をシェアしていた友人はさぞかし迷惑だったことだろう、しかし僕には必要な段階だったのだ。

30歳 Maher Shalal Hash Baz “ローマ帝国衰亡史”
厳密にはこの3年ぐらい前に、僕はその後の音楽観(人生観と言っても良いかもしれないが)をいやがおうにも決定させられてしまうほどに強力なレコード…あのマヘルの3枚組に出会っていた。マエストロ工藤冬里の事は、既に17歳のあたりで工藤の在籍していたシェシズのLP「約束はできない」を愛聴していたので知ってはいたが、当時は完全に国立のローカルバンドだったマヘルの事など、それまで知る由もなかった。工藤はてっきり引退して浄水器のセールスマンにでも転身しているか、音楽を続けているとしてもカラオケ専門のスタジオミュージシャンにでもなっていると思い込んでいた(尤も、賢明な工藤はどちらの職業も経験しているが)。仙台に来てから即興一辺倒だった僕は、工藤のメロディー(そのほとんどは何かの引用・変奏であることが後に判明したが)に魅了され、それ以上に工藤が統率するバンドメンバー(中崎博生、高橋幾郎、三谷雅史ら)の素晴らしいサウンドにのめり込んだ。それは世界の何処にも存在しなかった夢の音楽であり、歌われる歌詞の言葉は、とうの昔に「詩」を捨て去っていた僕には、あまりにも骨身に沁みた。30歳になる2000年に、クーラーの効き過ぎた難波ベアーズの最前列で、震えながら妻とマヘルを観て、僕が今後進む道は「これ」しかないという思いを確かにしていた。同じ客席には、後に死ぬほど会って過ごすことになるsekifuの関雅晴や小林士朗が居たし、ステージ上には3年後にyumboの1stアルバム『小さな穴』をプロデュースすることになるマジキック=テニスコーツの2人も居たが、この時点では誰も互いに知り合ってはいなかった。工藤冬里だけが、全ての登場人物を一手に引き受け、惹き付けていたのだ。

35歳 Steely Dan “Everything Must Go”
この頃、XTCに並ぶ僕のもう一組のヒーローであるスティーリー・ダンの新作(今のところ最新作)がリリースされた。僕はフェイゲンの『The Nightfly』を発売時に購入して以降、中学の頃には『さわやか革命』や『嘘つきケイティ』を愛聴するいっぱしのSDフリークになっていたが、その後第三のヒーローであるザ・スミスの登場があり、さらに(今回は好きなレコードの量が多過ぎて全て割愛してしまったが)70年代末~80年代中盤のニューウェーヴ、自主制作盤への偏愛、そして仙台に越してからの即興演奏への傾倒、ついには工藤冬里との出会いなどの荒波を経て、すっかり偏狭で奇特なおっさんになってしまった僕の中で、スティーリー・ダンは「若い頃夢中になった沢山のバンドの一つ」になってしまっていた。それが、この新作で喚起された高揚によって、見事に僕のプレイリストの最前線に帰り咲くこととなり、あまつさえ、SDおよびフェイゲンやベッカーのソロ作品のすべて(シングルも)を蒐集しようという情熱をも再燃させたのだった(このコレクションは現在も続いている。あとシングル数枚で完了か?)。

40歳 さかな “Blind Moon”
震災以降はRandy NewmanやDan Hicksばかり取り付かれたように聴いて、すっかり疲れ果てて老成してしまった観があったし、もはや今後聴く音楽に心を激しく揺さぶられることもないだろうなどと澄ましていたが、そんな41歳になった直後のクリスマスに、ポコペンさんと西脇一弘さん=sakanaはまさしく天使のように僕の前に現れた。仙台を代表するSSWであり、熱心なsakanaファンの濱田多聞さんから強く勧められてはいたものの、他人のレコメンドに対する冷淡さが板についてしまった40男の怠慢により、衝撃の出会いが先延ばしになっていたsakanaとの対バンで、そこそこ自分もいい曲を書けるようになってきたんじゃないかなどと調子に乗っていた僕は、完膚なきまでに打ちのめされた。もちろんそのダメージのほとんどは、甘美な歓びに包まれていたのだが。とりわけ、この初めて観たライヴで初めて聴いた”Blind Moon”は、音楽とは/歌とは、こうあるべきだと心の何処かで思いながらも、僕が逆立ちしても書くことのできなかった、信じ難いほど素晴らしい音楽/歌だった。すべてが完璧で崇高だった。sakanaはこのような歌を山のように作っていて、そのどれもがライヴのたびに改良され、生まれ変わり、また多くの人々を魅了し続けているのだった。僕は出来ることなら、sakanaのようになりたいとさえ思ったけど、それは僕がYMOや工藤冬里やSteely Danになれないのと同じで、愚かな夢だった。今はただ、この拙稿で取り上げたとてつもない音楽家たちと同じ時代に生きてきたことに感謝し、あわよくば彼らのアウラの片鱗だけでもかすめ取ることができれば幸いだと思っている自分が居るだけなのだった。
